師匠の稽古
徒弟制度の中にあって、弟子は常に師匠の側でいつでも稽古をつけてもらえる存在、と思われている方も多いでしょうか。
「今から稽古。」と言われたときに走る喜びと緊張感は、弟子に入って8年目、年々高まっています。
『稽古』として個人的に時間をかけてみてもらうことは、基本ほとんどありません。そう言うと結構びっくりされます。
わごいちの中で、生活の中で、生き方自体を学び取る。師匠からの教えは私たち弟子に常に開かれています。いつ、何を学ぶか、それさえも最後は自分次第なのかもしれない・・・・・なんて思う今日この頃です。
今時そんなやり方?
はい、そんなやり方です。
特別な強化月間
徒弟制度とはそういうものでしょうか。
少なくともわごいちはそうしたあり方です。だから終わりがない。師匠の進化が止まらないのだから、私たち弟子に終わりなど到底ありません。
今の私の技術でも充分に世間からは特化していると思う。だけど、それでは救える人は今の範囲に限られてしまいます。弟子の私が見ているのは世間の技術ではありません。施術を受けた皆さんが、「うわ!変わった!!」と感嘆の声を上げる師匠の技術。ここで成長を止めるだなんてまっぴらごめんです。
そんなわごいちにあって、この6月、8年目にして初めて毎日稽古をつけてもらえるという特別な強化月間でした。

門外不出の技
師匠には、つまり「ハラ揉み」には、いくつかの門外不出の技があります。その一つに今、挑んでいます。
流れそのものを変化させる技術。師匠のその施術を受けた後は、顔艶さえもが変わると会員さんは言います。痛みのある場所を触っていないのに、痛みが軽減することも。(患部は患部で施術します)
「命そのものに向き合え。」
「つかんで変えるんだよ。」
感度、ハラ
「やっぱり足の方が感度いいな。キャリアか。」
先日、師匠からそう一言。
その自覚があります。自覚があるからこそ悔しい。
この7年、確かに私は丹足でやって来たと言えます。この両足で皆さんと関わってきました。皆さんの変化を察知してきました。だから手が足に及ばない?そんなこと、ただ甘い。
「ハラだよ。手は頭に繋がりやすい、そこをね。」
圧をかけないで深くほぐす。丹足と同じこと。手でも根底は同じことですが、細やかで複雑なところを圧をかけないでほぐす、つかまえる、変える、それがどれほど難しいことか。
そこにどこまでも限りなく挑むことが、感度を高めることになるのだろうと思います。それは、眼力にも繋がるでしょうか。

もう一歩、いや、このもう一歩が果てしなく遠いことだけは知っています。だからこその秘奥義。
悔しいとか甘いとか、そんなこと言ってる間に工夫。先は見えなくとも先があることだけは確か。
まだまだ精進です。
井上紙鳶
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