わごいち院宝物語⑤【最終回】御中の衝立



頭や心をスッキリしたい時、神社に行く。神社は塀がなくて開かれた感じが好ましい。風が通る感じがして息がしやすくなる。

 

「大阪の街中とは思えないほど静かですね。なんだか神社に居るみたい」とわごいちで言う。そう言われると少し嬉しい。

 

とうとう衝立の修理が完了した。

 

松下幸之助「創業の家」からやってきた衝立の大修理。足のグラグラを直し、破れた和紙の張替えをしてきた。

 

ちょうどいい大きさの龍の絵があり貼ってみたものの、なにか物足りない感じがした。多分それは松下幸之助さんの衝立には役不足だったのだろう。

 

だから龍絵に墨を重ねた。

 

たてがみを一本一本、ウロコを一枚一枚。濃く薄く、太く細く、くっきりした線、かすれた線、なんどもなんども塗り重ねる。

 

龍画というものは不思議なもので、線を重ねれば重ねるほど、力を増していくようだ。たとえほとんど水のような薄い線でも、気持ちを込めて線を重ねていくと、力が蓄えられるように感じる。

 

整体施術の合間に描いていく。おなかを揉む。線を引く。揉む。引く。おなかと龍を行ったり来たりして、線を濃く深くしていく。

 

令和八年一月十日。

完成祝の膳。ありあわせで衝立の完成を祝う。

 

出来上がった衝立を前に、ゆっくりと酒を呑む。

 

やっと幸之助さんの衝立を直せたなあ。

いつのまにか渾身の龍の衝立になったなあ。

 

そう思って、酒を呑んで見つめていたが、見るうちにだんだんとそうではないと思い始めてきた。

 

これは龍画ではない。だんだんとそう確信してきた。

 

 

そういえば・・・散々墨を重ねた龍のうずの真ん中の空洞。

 

最後にのこった真っ白な部分がどうも落ち着かず、さりとて墨を入れるのは違う気がして、筆で描くのも違う気がして、指でお茶や微生物発酵液を入れていった。

 

なぜそうしようと思ったのかはわからない。たまたま手元にあったそれらを、自然に指にのせて紙の繊維に染ませていった。

 

しばらくして乾燥したその真ん中は、えも言われぬ透明の存在感を帯びている。

 

「吸い込まれるような、でも反対に押し出されるような感じがしますね」

 

という紙鳶さんの言葉そのままに私も思う。

 

その夜、話すことも、目をあけていることさえもできないほど極度に疲れを感じ、早々に布団に入る。

 

 

翌朝に再びこの衝立に向き合い、やはり午睡をとるはめになる。向き合うと疲れさせられる。でも悪い感じではない。圧倒される感じがするだけだ。

 

ジブリ映画「天空の城ラピュタ」で、洞窟の中のおじいさんが「娘さんや、その石をしまっておくれ。わしにはその光は強すぎる」というようなセリフがあったと思うが、まさにそういう感じだ。

 

幸之助さんの衝立が、まさかこういう風になろうとは。これはなんだろう。何ができたのだろうか。

 

これはまさに、私がずっと描こうと思ってできなかった「御中(おなか)」に他ならない。

 

なんど描こうと思っても描けなかった。でも龍を必死に書いていたら、知らぬ間にその真ん中におなかが現れていたのだ。なんという不思議なことだろう。

 

かくしてわごいちに「御中の衝立」という宝物が生まれた。おなかの神様が衝立にやってきた。正確にはおなかにつながる入口を描き出したと言うことになろう。

 

この衝立が完成してから、以前ほど神社や公園などに生きたいと想う気持ちが減っている。ここにいれば落ち着く。ここにいれば研ぎ澄まされる。視野が広がり思考が深まる。

 

慢心や過信さえしなければ、わごいちは正しい道を歩んでいくことができるだろう。もう迷うことなく一心におなかに、命に向き合っていけばいい。


かくしてわごいちの院の宝「御中の衝立」が完成した。(完)

 

 

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「御中(みなか/おなか)のついたて」は、月始めの『おなかの詩』音読会で皆さんに公開しています。