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わごいちの作り方⑳整体塾をはじめるまで

 私が整体塾をはじめたのは2011年4月のことでした。その数年前から悩み決心がつかずにいたのですが、東日本大震災がきっかけとなり「やるべきことはやらなあかん」と踏ん切りをつけたのです。

 

 整体の世界に入り、だんだんと自分なりの理想の整体が形になりつつあった当時、ずっと気になっていたのは「整体業界のふがいなさ」でした。わごいちの中ではこんなにドキドキするような挑戦が続いている一方、外では「いつまでも治らない」「でも通わされる」という話が溢れていました。

 

 「遠くからわごいちに通うのは本当はおかしいよな。あちこちに信頼できる整体師がもっと増えればいいのにな」。すでに予約がパンクしていた状況も、私の背中を整体師育成へと押し続けました。

 

 しかしなかなか決心できませんでした。今から思えばばからしいことですが心配でした。技術は生み出すよりコピーする方がはるかに簡単なもの。教えたらあっという間に追い抜かされるんじゃないか、そんなちっぽけな心配がどこかにありました。

 

 また生徒が技術を私物化して金もうけに悪用したり、本来の教えをないがしろにするかもしれない。のれん分けした分家が本家を圧迫する、整体でもヨガでもピラティスでも、古今東西そんな話は枚挙にいとまがありません。

 

 私が習った丹足の源流の技術があるのですが、その創始者が亡くなった後に醜い争いを続けています。技術を伝える、残すというのは本当にデリケートな問題だなあと思うのです。

 

 わごいちだってそうです。ご存知の通り、私の技術はほとんどオリジナル、この世に唯一のものです。しかも色んな不調が治ってきた実績がある、日本中の皆さんからの評判も信用もある。周りの整体師としては喉から手が出るほど欲しい技術と信用です。だからこそズルい人間もチラホラします。私が怖いから今のところ大丈夫ですが。笑

 

 しかしあの震災は私の頭を打ちました。技術を隠すのは自分のためじゃないか。自分たちは原発事故で後世に取り返しもつかない負債を残してしまったのに、そのまま死ぬような人生でいいのか?とニュースを見ながら毎日考えました。自分がもつ最大の宝「整体技術」を人に伝え、社会に広げ、後世に残さないと、と踏ん切りをつけたのです。

 

 震災があったのが3月11日。学校をはじめるなら4月だろうと、必死で構想を固め、3月下旬から生徒募集をかけました。と言っても広告などは打たず、突貫工事で作ったホームページと口コミだけでした。

 

 屋号は「三宅式整体塾」としました。私は自分の名前を出すのはあまり好きではないのですが、教える技術に責任を持ちますよという気持ちを込めて自分の名前を入れました。

 

 ホームページの塾長挨拶には「整体を変えよう」というメインメッセージを入れました。皆さんが知っている整体よりももっと深くてワクワクする整体の世界があるよ。整体はもっとできる、もっと可能性があるんだよ。切磋琢磨してそこを目指そうよ。「整体を変えよう」よ。そんな挑戦が始まったのです。(つづく)

 

 

 

三宅弘晃

 

※忘れられない記憶

福島第一原発が爆発して、原子炉の冷却機能が失われてどんどん加熱していって、これからどうなるんだろう、と息を飲んでニュースを見つめていた時、東京消防庁のハイパーレスキュー隊が駆けつけてくれたあの安堵というか、望みがつながったというか、あの時のこと決して忘れてはいけませんね。